「先程、私達が居た部屋がございますね。その部屋の香の薫香は覚えておいででしょうか?」
そう問われ、ふと博雅は視線を巡らせる。少しばかり緊張していた為か、はっきりとは覚えていなかったが、いつもの香とは違っていたような、いやそもそも陰陽寮で香を焚くことなどあったか?と無意識のまま口にし、博雅は保憲に向き直った。
「なんとなく・・・・・・ですが、羅国が混じっていたような気がします。」
博雅は六国の内の一つである羅国の名を挙げる。羅国は自然と匂い鋭く、その様武士の如し。と形容されるものだ。その答えに保憲は胸中苦笑し、やはり殿上人よなと思った。そしてつと少年を見やる。僅かに口が動いたの見届けた後、保憲は答えた。
「鋭いのですね。そしてその香は、彼の手製なのですよ。」
「えぇっと、つまり・・・・・・?」
「私が寮で焚く用にと彼から頂いた物です。」
にこっと毒気のない顔で保憲は微笑む。そんな様子が分かったのか、少年はぷいと横を向いて軽く肩をすくめてみせた。そして博雅は何故自分が陰陽寮の者と問われたかを理解した。先刻少年を勢い余って抱き込んでしまった時、己が衣の移り香を嗅いだ少年がその香が自分が作って保憲に上げたものだということを瞬時に解した。だからそう問うたのだと――。
「ところで先程二人ばかり童子が居たようだが、彼等は今何処に?それと重信が見た陰明門の舞士とは、もしや・・・・・・。」
自分よりも背の低い少年の方を振り返り、そしてまた保憲の方に向き直る博雅。そんな彼を無視し、少年は保憲の傍まで来ると、握った拳の甲側で胸の辺りを叩いて気を引き、保憲を見上げる。軽く首を傾げ少年を見つめた後、保憲は頷いて博雅に顔を向けた。博雅の意識がそちらに向いた途端、少年が物凄い勢いで博雅の脇を抜け朱雀門を抜けて闇に紛れた。今度ばかりは手を出す暇もなく、博雅はその後ろ姿を見送るしかなかった。
「彼からの言伝です。知らぬが仏という言葉があります。とのことです。」
本当はもっと尊大な言葉だったのを、保憲は丁寧な言葉に置き換える。少年は「質問ばかりで五月蠅い。世の中知らない方がいいこともあるんだよ。」と半ば吐き捨てるように言っていた。
「彼は話せないのですか?」
「えぇ。」
――人の前ではね。黙ってそう付け加えつつ、保憲はその質問を肯定した。博雅はその答えに何も疑問を感じることなく、先程の少年の掠れた声を思い返す。少年とは思えない声。もしや声変わり前かと思っていたが、違っていたのかと、博雅は一種落胆にも似た思いを抱く。
「保憲殿。知らぬが仏とは言われましても、やはり私は知りたいのです。」
まずい展開になってきたぞ。さてどのように言い訳をしようか。そんな思いを顔には出さず、次の一手を考えるべく保憲は朱雀門に背を向けた。取り合えず戻りましょう、と。彼のその言葉に素直に従う博雅。寮に帰る道すがら、重信が遭遇した舞士が先程の少年であることだけは告げた。保憲はそれだけ言うと後はどのような質問にも答えようとはしなかった。
陰陽寮の手前で、次の一手を考えなければなと思案した保憲に、天佑が顕れた。寮生が一人切羽詰った表情で現れ、二人に一礼する。
「何処にいらしてたのですか!?清涼殿より疾く来よとの伝令を受けております。お急ぎ下さい!!」
呼び出しの内容が下らなかろうが、多少面倒であろうが、今の保憲にとっては有難かった。寮生に燈明皿を渡すと、保憲は博雅に一礼して清涼殿へと駆けて行った。
「何があったのだ?」
普段なら有り得ない保憲の行動を呆然と見つめていた寮生は、博雅の声で現実に引き戻される。それからすっと地面に膝をついた。
「内容までは聞かされておりません。兎に角お急ぎのようでしたから。保憲様に何か御用でしたか?」
「用は済んだので、今宵は帰るよ。保憲殿によろしくお伝え下さい。」
寮生の返事を背に受けながら博雅は新たな決心をし、帰途に着いたのだった。